2006/08/04(Fri.) [長年日記]
■ [ETilog9][Web] 石垣島、つまり石垣
はてなフォトライフのキーワード石垣が石垣島関係と思われるものに占拠されてる…
しょうがないんだろうかな。城の石垣じゃキーワードにしようとはあまり思わん。
■ [ETilog9][Book] 読書コンプレックス
小さい頃、わたしは読書と言うものが嫌いであった。読書が嫌いと言うよりも、読書感想文というものが嫌いだった*1。いやいや読む本ほど不幸なものはあるまい*2。母は、「志望校の入試に出るから下村湖人の次郎物語(ISBN:4061472674)を読め」と言っていた。わたしは結局読まなかった。さっと見ただけでは、文章がわたしの波長に合わなかったからだ。入試で前年度に出た作品が翌年にも出るということは、確率論的にあるわけがないのであった*3。それでも小学生の折の国語の成績は悪くなかった。テキストやテストで読まされる膨大な文章の中には、面白いと思わないこともないものも数多くあった。だが、小学生のわたしは「読書」と聞くと反射的に「いやなもの」というようになっていた。この状況を中学生になって救ってくれたのは、歴史小説であった。最初は戦国時代のものしか読まなかったが、幕末、中世、近現代へと拡がっていった。そこから、新書を読むというところまで行き、大学生になって使えるお金が増えて、ハードカバーの本を買うということも出来るようになった。
わたしは、やたら本を読んでいる。書籍エンゲル係数は高い部類に当てはまるに違いない。だが、そこで読む本は歴史小説であったり、いわゆる「新書ブーム」以後に多く出始めたような新書だったりする。岩波新書、岩波文庫から講談社学術文庫あたりはわたしの範囲の外になってしまっていて、親しい人がそういうものを読んでいるとそわそわしだしてしまう。純文学、古典的な文学作品から古典そのものも当たっていないし*4、海外文学はもう壊滅状態だ。
SNSで、会えば話はするだろうがもう連絡を取り合うほどではなくなった嘗ての親しかった級友が見つかったりする*5。そういう級友が、いつの間にか漢詩なんかを読んでいたりすると面食らってしまう。そういった歴史的な文物への造詣は、高校時代にはわたしの方が深かったはずなのに。
ブログで、自分が読んだことのない本を読んでいることが判明したり、海外思想家の本をよく買っているとかプロフィールに書いてあったりすると、焦燥を感じる
本とは、そのように読まれるものではないというのはよく分かる。未だに「24」を見ていないことに対して危機感は覚えないのに、書籍に対してだけそう見てしまうのは、やはり私が本を読むと言う行為を崇高なものとして見てしまっているのだろうか*6。結局は、咀嚼力というものに対する、能力へのコンプレックスに集約されるのかもしれない。
*1 今では、読書感想文そのままのレビューを書くことすらある! だが、それはホームページという箇所で、先生や審査員、親に気兼ねなく自分が好きなように書けるようになった事が大きい。あとは、「この本は出版そのものが犯罪だ、詐欺だ、作者は死ねばいい」などとは間違っても読書感想文では書けないことも大きいだろう。
*2 だが、本を読め本を読めと連呼する大人がいないと読むようにならないのもまた事実ではないかと思っている。これは、いずれ別エントリで。
*3 まあ、そういった類いの作品が出るのだからそういった文章に慣れておけという趣旨だったら、今のわたしには分からなくもない。だが、間違いなく母はそういった論調で先の意見を吐いていたとは到底思えないし、その論理でも当時のわたしは納得しえなかっただろう
*4 最近、史料を読むのが苦痛になり始めている。これは致命的そのものかもしれない
*5 mixiでは足あとがつくのでそういうことをやらない。確かに足あとは面白い機能だが、その機能がないのもまた気軽でよかった。「つながり」というものは生まれ得ないものになってしまう副作用はあったろうが。。。アクセス履歴機能が付加されなければ、今頃GREEももっと使っていたかもしれない。
*6 五木寛之氏が「読むことは崇高なことではない」とった趣旨の文章を書かれているのを、塾の教材で見たことがあり、それにひどく同意したことがある
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