2017/01/19(Thu.) 遠くにいても [長年日記] この日を編集
■ [Place][life] 二子玉川ライズ
二子玉川ライズは、たまに東急ポイントがWポイントになる。東急カードで3%還元が6%になる。このときを待って買い物をすると、電車代くらいはカバー出来たりする。
Wポイントは嬉しいのだけど、Wポイントの期間しか買い物しなくなってしまう。どうしたものか。
■ [Review][Magazine] 週刊ダイヤモンド2017/1/17号 「超」整理日記
週刊ダイヤモンド2017/1/17号掲載の「超」整理日記(野口悠紀雄)は、長時間労働の問題。昨今の情勢をなめつつ、サービス残業の実状に言及し、高度経済成長期に通用した働き方は終身雇用制が崩壊した今では通用しないと展望を述べている。その上で、仕事が持ち帰られるだけになることを懸念したで、「時間の制約なしに働きたいと思う人たちの機会が奪われる」ことを問題としている。
社会の進歩は、多くの場合、寝食を忘れて働く人たちの努力によって実現される。
その通りだと思う。野口氏は、どのような働き方をするかは各人の意志としている。
ただ、企業内でヘビーワーカーと定時退社者を混在させるのは事ここに至りまず無理といって良いだろう。従って、もう大企業は労働基準法通りに来てもらって返ってもらうしかない。野口氏が懸念するとおり、飛躍的に進歩することはないだろう。中小企業もサービス残業促進するとブラック認定されてアウトだろう。もう今後はみんな個人事業主になるしかない、と私は言っているが、個人事業主だけで実施出来ない案件は今後厳しくなる可能性がある。落ちるところまで落ちるしかない。それでもサービス残業・異常な長時間労働をなくすためには、魔女狩り同然の労基査察でしか改善しない。
至極コラムは正論だが、全くネットでは話題になっているように見えない。Yahoo!JAPANのリアルタイム検索で探してみた限り、誰も言及していない。今だったら叩かれても良いだろうに。そして、時間を集中投資することで一発逆転を狙うことを封じる階級の固定化についてここまでみんな容認してるのだろうか。経済誌を読むような層は、ネットに溢れる企業叩きを冷笑する会議室のおじさましかいないのだろうか。dマガジンもダイヤモンド配信してたと思うが、いったい。。。
2017/01/29(Sun.) 私には失うものはなにもありません [長年日記] この日を編集
■ [Review][TV][Book] 歴史学者を「平成の司馬遼太郎」と形容する愚
2016年1月22日のMBS(TBS系)「情熱大陸」は歴史学者・磯田道史。
磯田道史氏は歴史学者としての業績もありながら、一般向けに新書などの形でその成果を精力的に展開しており、情熱大陸が取り上げるに相応しいと言えよう。一人の歴史学者の生い立ち・今を鮮やかに取り上げた、日曜夜を楽しくする30分だった。
だが、気になるのは磯田道史氏が「平成の司馬遼太郎」と言われているといった紹介。小説家(歴史小説作家)と歴史学者は、立脚する手法が異なる。例え同じ結果を出してたとしても、この表現は磯田道史氏に対しても司馬遼太郎に対しても失礼と言える。いつの間にかくまで愚かなコピーが出回るようになったのか。
番組内では、「平成の司馬遼太郎」という表現について、氏が関西のテレビ番組に出演しているくだりで併せて紹介されている。そこで、学者がテレビに出ることに対してどうなのか、ということへのインタビューとして言及されている。
- 歴史学とは過去を人々に認識してもらうこと
- その方法は本や活字である必要はなく、テレビや映画でも良い
- 学者の書いた歴史は正確かもしれないが、一般の人の歴史意識と異なる 一生知らずに終わる
- その代替作用として司馬遼太郎さんをつかってた、その問題に直視したい
歴史には今を生きる人の悩みを解決するヒントがあり、それを紹介したいのだと締められる。
同氏としては、歴史学の成果を伝えたい、役立てて欲しいといったあたりで、著書を書いたり、テレビに出たり、映画の原作になったりといったあたりは願ったり叶ったりといったところだろう。で、「平成の司馬遼太郎」と言われても全力になって否定するほどではない、本旨が達成されれば拘りはない、というようなスタンスを感じる。歴史学者がテレビに出るのは、もう一般的と言えよう。NHKの歴史番組にだって小和田哲男氏あたりが毎回出ていた。テレビドラマの史実考証に対する役割は大きい。その分野で頼られない学者・学問は何のために存在するというのか。磯田道史氏の著書には、小説仕立てのものまで幅広くあるようだが、一般向け書籍では歴史学者が「if」を書いたり、歴史学の手法を超えて想定を記載することまでこれまでも行われている。但し書きがなされていれば、問題はないと思われる。
一方で、歴史学者が小説家の後塵を拝してきたことに、忸怩たる思いも表現ににじんでいる。なんてったって「代替作用」である。歴史学の成果だけでも、フィクション織り交ぜて歴史を語る小説家に負けてられない、と。
「平成の司馬遼太郎」という紹介のされ方は、どうも2015年の『無私の日本人』文庫化以降にちらほら散見されるようになっている*1。それこそ、歴史学の手法でインターネットや膨大な出版数を丁寧にサーベイしなければ、アホの初出を探すのは難しい。科学としての歴史学、歴史学が及ばない史料の狭間を埋めて物語を構築する文学の世界は、教養として分けておかねばなるまい。ついでに言及すれば、司馬史観を信奉する層からも批判を喰らうので、「平成の司馬遼太郎」という評価には百害あって一利なしである。しかし、司馬遼太郎・頼山陽・小瀬甫庵と日本人は物語で歴史を勉強するのが好きだよなあ。。。
……冒頭で、磯田道史氏の著作は何度か読んでおり…と書こうとしたら見事に未読だった模様。これでカバーを掛けた積みっぱなしの書棚から発掘したらどうしよう。。。
*1 MBSが作ったワードではない、ということだ。ただ、わざわざ番組内で取り上げる必要があったかというと、番宣以上の効果はなかったといえる。
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