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2017/01/29(Sun.) 私には失うものはなにもありません [長年日記]

[Review][TV][Book] 歴史学者を「平成の司馬遼太郎」と形容する愚

2016年1月22日のMBS(TBS系)「情熱大陸」は歴史学者・磯田道史。

磯田道史氏は歴史学者としての業績もありながら、一般向けに新書などの形でその成果を精力的に展開しており、情熱大陸が取り上げるに相応しいと言えよう。一人の歴史学者の生い立ち・今を鮮やかに取り上げた、日曜夜を楽しくする30分だった。


だが、気になるのは磯田道史氏が「平成の司馬遼太郎」と言われているといった紹介。小説家(歴史小説作家)と歴史学者は、立脚する手法が異なる。例え同じ結果を出してたとしても、この表現は磯田道史氏に対しても司馬遼太郎に対しても失礼と言える。いつの間にかくまで愚かなコピーが出回るようになったのか。


番組内では、「平成の司馬遼太郎」という表現について、氏が関西のテレビ番組に出演しているくだりで併せて紹介されている。そこで、学者がテレビに出ることに対してどうなのか、ということへのインタビューとして言及されている。

  • 歴史学とは過去を人々に認識してもらうこと
  • その方法は本や活字である必要はなく、テレビや映画でも良い
  • 学者の書いた歴史は正確かもしれないが、一般の人の歴史意識と異なる 一生知らずに終わる
  • その代替作用として司馬遼太郎さんをつかってた、その問題に直視したい

歴史には今を生きる人の悩みを解決するヒントがあり、それを紹介したいのだと締められる。

同氏としては、歴史学の成果を伝えたい、役立てて欲しいといったあたりで、著書を書いたり、テレビに出たり、映画の原作になったりといったあたりは願ったり叶ったりといったところだろう。で、「平成の司馬遼太郎」と言われても全力になって否定するほどではない、本旨が達成されれば拘りはない、というようなスタンスを感じる。歴史学者がテレビに出るのは、もう一般的と言えよう。NHKの歴史番組にだって小和田哲男氏あたりが毎回出ていた。テレビドラマの史実考証に対する役割は大きい。その分野で頼られない学者・学問は何のために存在するというのか。磯田道史氏の著書には、小説仕立てのものまで幅広くあるようだが、一般向け書籍では歴史学者が「if」を書いたり、歴史学の手法を超えて想定を記載することまでこれまでも行われている。但し書きがなされていれば、問題はないと思われる。

一方で、歴史学者が小説家の後塵を拝してきたことに、忸怩たる思いも表現ににじんでいる。なんてったって「代替作用」である。歴史学の成果だけでも、フィクション織り交ぜて歴史を語る小説家に負けてられない、と。


「平成の司馬遼太郎」という紹介のされ方は、どうも2015年の『無私の日本人』文庫化以降にちらほら散見されるようになっている*1。それこそ、歴史学の手法でインターネットや膨大な出版数を丁寧にサーベイしなければ、アホの初出を探すのは難しい。科学としての歴史学、歴史学が及ばない史料の狭間を埋めて物語を構築する文学の世界は、教養として分けておかねばなるまい。ついでに言及すれば、司馬史観を信奉する層からも批判を喰らうので、「平成の司馬遼太郎」という評価には百害あって一利なしである。しかし、司馬遼太郎・頼山陽・小瀬甫庵と日本人は物語で歴史を勉強するのが好きだよなあ。。。


……冒頭で、磯田道史氏の著作は何度か読んでおり…と書こうとしたら見事に未読だった模様。これでカバーを掛けた積みっぱなしの書棚から発掘したらどうしよう。。。

*1 MBSが作ったワードではない、ということだ。ただ、わざわざ番組内で取り上げる必要があったかというと、番宣以上の効果はなかったといえる。


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