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2009/03/08(Sun.) 価値観はどこまで一緒ならばいいのだろう [長年日記]

[ETilog] ようやく「東九州・鹿児島旅行記」をアップ

弱気なことを書いてしまい、恥ずかしくなったのでガツンと書く気が起きたのでした。とりあえずアップ。校正・一部手直し等をこれから加えていくこととします。前にあった「企画意図」のエントリは、本日再度アップしました。……結局、一部書きかけのエントリが出来てしまったけど、とりあえずアップ。

しかし、寝台特急「富士」に乗ったのに、アップするのが廃止後ということにだけはならなくてよかったと思います。

[trip] 東九州・鹿児島旅行記:企画意図

母が亡くなって一年が経とうとしていた。私は、母の死に際して油断していたのだ。母の姉たちが今なお健在、母方の祖父も80までは生きたのだから、母が亡くなることはないだろう。その目論見は簡単に崩れた。

母には、よく分からないくらいにきょうだいがいた。母は、自らのきょうだいについて語ることは少なかった。ひとつ言えるのは、母の姉たちは本当に高齢で、そもそもその姉たちの子(いとこ)の子息は私と同年代である。母の葬儀に来ることが出来たのも、長姉と一番近い姉だけだった。足が悪く、長距離の移動が出来ない伯母が何人かいた。母の郷里・鹿児島には、私が幼稚園の折、祖父の一周忌以来20年以上行っていなかった。ここはひとつ、葬儀に来られなかった伯母たちに私の元気な顔を見せねばなるまい。

ゴールデンウィークが本当に取れるか心配だったため、伯母への連絡は出発直前となってしまったが、「いいわよ。いらっしゃい」とのこと。申し訳なく思うと同時に、嬉しい限りである。


鹿児島行と同時に、私は未踏の宮崎・大分を探訪するという目的を付加することとした。この2県だけは本当に行く機会がなかった。後者は、私が岩手でなく大分に行くことになっていたかもしれないというのに。私にとって、その土地へ行くというのに際して、(1)市街地を歩く、(2)城へいく、(3)鉄路を乗りつぶす、の3つがタスクとして上がってくる。いろいろと悩んだが、ゴールデンウィーク休みの1日目を費やしてようやく旅程が決まった。飛行機で羽田から宮崎空港に降り立ち、宮崎観光後鹿児島へ移動、ちょこっと鹿児島を見て回った後に親戚に挨拶、最終日に大分に移動し、寝台特急富士で帰ってくるというスケジュールをチョイスした。私は鉄道好きではあるが、移動は絶対鉄道じゃないとダメという原理主義者ではない。バスは拘束時間の多さと、移動中本が読めないという点で長距離移動には採用しない主義だが、飛行機ならOKだ。ただ、この時期は料金が高い。そこで、現地での鉄道移動を考えた結果、周遊きっぷ「九州ゾーン」がいいだろうという結論になった。


2008年4月30日、いつも出勤に使う列車で羽田空港へ向かうことにした。

[trip] 宮崎空港へ

羽田空港へ。京急羽田空港駅はANA使いにもJAL使いにも悪くない使い勝手だと思う。空港の売店でお土産を多めに買う。Edyがどこでも使えるので便利だ。

2年ぶりの飛行機。はじめてのskipサービスでどこにかざせば良いのか分からず、教えてもらいながらの入場。技術系の影はそこにはない。

しかし、飛行機が地上を飛び立つときには未だに緊張が解けない。ものすごい動揺するわけではないのだが、「だいじょうぶかな」と心配になってしまう。生まれて初めて2歳の時に鹿児島へ行ったときは往復飛行機で行ったが、その3年後の祖父の葬儀の時は、母に頼み込んで復路は寝台特急はやぶさで西鹿児島から東京まで帰るルートにしてもらった。西鹿児島から延々と乗ったことがあるだなんて、今となっては自慢できるネタであるが、母には体力的負荷をかけた。翌年の一周忌の時は、特急有明で博多まで、そこからひかりで博多-東京という、さらに考えられない選択肢で帰ってきた。小学校未就学の身分、指定券で大人一人しか買っていなかったため、隣に2回ほど指定券を持った客がやってきて、私は何回か母の膝で過ごすことになった。母はしんどそうだった。

そういうルートをお願いしたのも、1985年の日航機墜落事故が影響しているのだと思う。飛行機は落ちるもの。そういう刷り込みが幼い私になされたことは否定できない。もっとも、便利なのでやはり使ってしまう。命をBETに利便性を取るのもスリルがあっていい。でも、新幹線脱線や福知山線の事故があったのに鉄道にそういう心配をしないのはなぜなのだろうか。

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宮崎空港到着。人生初宮崎。

南国っぽい雰囲気が出迎えてくれるが、その日は東京と比して南国っぽい陽気ということはないのであった。

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宮崎空港から宮崎までは鉄路で移動。特急でも乗車券だけで移動できるくらいなので特急が来るかと期待していたが、普通列車であった。

しかし、宮崎空港駅は感動的に近い場所にある。福岡空港も駅が近く、こちらの場合は博多までの移動がすぐという利点もあるが、なにせ宮崎空港駅は階段上ってすぐ改札、直ホームである。ただ、宮崎県内各都市や宮崎市街中心部へ直行出来るという利点でバスのウェイトが大きいらしいようだ。

1度宮崎へ出る。宮崎駅は、2面のホームごとに改札のある、帯広のような構造だった。帯広よりは宮崎の方が先のようで、帯広が宮崎のようだと言うべきかも知れない。

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宮崎駅は南国情緒にあふれる駅である。駅前即繁華街でない分、開放的なのである。

[trip] 日南市飫肥で感動したこと

宮崎からは日南線乗車の旅となる。当初は志布志から都城へバスで抜けるルートを考えたが、出発前にインターネットで調べてみると、いかんせん接続が悪い。志布志線を廃止した挙げ句が1日4往復である。結局、鉄路で維持できない路線はバスでも維持できないということなのであろうか。それで、宮崎-志布志を往復するルートに決めた。極力、初乗車になる路線は日中乗るように心がけているが、復路ならば日が暮れていても良かろう。鉄路ならバスと違い*1本も読めるし、時間が無駄になることはない。

プラットホームへ行くべく宮崎駅改札へ。改札外では弁当をいろいろ売っている。しかし、時としてロングシート車両が来ることがあり、その場合は車中駅弁を食べづらい。列車を見てから買おう、ホームでも弁当くらい売ってるだろ――そう思ってホームへ上がると、ボックスシート1両編成の列車が鎮座しているのはいいが、そもそもホームに売店すらない宮崎駅の事実が私を待ち受けていた。この状況は、どげんかせんといかんのではないのかね?

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列車が発車する。途中、サンマリンスタジアムや青島を通り過ぎていく。春とはいえ、夏色の彩色が心地よい。


飫肥駅に到着。

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飫肥駅はこぢんまりとした駅だが、雰囲気がいい。圧倒されない重厚感があり、客と駅員がさほど多くなくとも風格がある。徒歩で飫肥市街へ移動。

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私は城へよく行く。戦国時代専門だったわりには中世の城、別して山城へあまり行かない。山城は山城で見るべきところはあるのだが、小兵を持って小兵を打ち破るって城が多く、城を訪れてもあまり燃えない*2のだ*3。街を形成してきたコアたる近世城郭のほうに興味がここ最近は強い。特に、小藩の居城ほど、良雰囲気の城下町が多く、そういうところでメジャーどころはことごとく「攻めておきたい」のである。

飫肥城見学。

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縄張りはオーソドックスで、石垣以外のも遺構も多くはない。本丸が林と化しており、観光地化されていない城跡だとポピュラーな光景なのだが、二の丸以下に資料館が充実している当城においては珍しく、ちょっとしたアクセントともなっている。

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朝の連続テレビ小説「わかば」で主人公が落ち込んだときに元気をもらった林、なのだそうだ。

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飫肥は町並みを観光資源にしているようで、歩いていて気持ちがよい。資料館等の受付も、おもてなしのこころにあふれており、最初に共通入場券を買ったときに、次に共通券で入れる箇所の場所を丁寧に説明してくれた。おもてなしが過ぎると、えてして観光客にとってうぜーとなりがちなのだが、説明は必要にして最小限。バスで訪れていると思われる団体の観光客の多いのは、人気があり市の広報も行き届いているせいか。女子高生か女子大生の団体が6班程度に別れてあちこちを見て回っているのをはじめて見た。こんなこともあるのかと、不思議な心持ちであった。

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こんなところにも東国原知事の看板が。一緒に記念写真を撮る人もいるようだ。ただ、飫肥の中ではここ一カ所で、インフレを起こさないようにしているあたりは上手いと思わせる。

小村寿太郎記念館まで見学し終わって、武家屋敷が並ぶ通りを歩く。

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水路に鯉が泳いでおり、のんびりとした城下町の雰囲気を十分に味わうことが出来た。

帰りは、行きに飫肥市街まで向かった国道沿いではなく県道沿いに飫肥駅へ戻ることにしたい。ところが、どうも県道に出ない。ちょっと歴史あふれる住宅街を歩き回る青年。少し怪しい。

塀だけはなお武家屋敷っぽい道を、資料館でもらった地図を片手に駅の方角へ歩いていると、前から歩いてくるヘルメットを装着した男子中学生が「こんにちは」と声を出した。私は、駅へ行くにはどっちへ行けばよいかで頭がいっぱいで、中学生が歩いていると言うことですらさほど意識していなかった。てっきり、私の後ろに知り合いの大人がいたのだろう、と思った。しかし……

次に、女子中学生が友達同士二人で道を歩いているのに出くわした。彼女たちとすれ違おうかというとき、会話をやめて彼女たちもまた私に向かって「こんにちは」と挨拶してくれるではないか。私もすかさず、「こんにちは」と挨拶を返した。私は漸く、この町に事態が飲み込めたというわけだった。

私は率直に感動してしまった。どうやら、飫肥市街では学童生徒たちはよそから来た観光客にきちんと挨拶をするように仕込まれているらしい。

もともと、近代日本の各地の各町においては、このように余所者に対しても挨拶をしていたはずなのだ。出会った人が見知らぬ人でも挨拶をするのは、もはや山岳くらいになってしまった。

小学生ならともかく、中学生でここまで「挨拶すること」が徹底されているのは相当に凄いことである。並の教育では無理なことだ。神奈川の団地では団地内のひとへの挨拶はなされていたし、岩手で6年間住んでいた盛岡圏郊外では、中高年の方は挨拶してくださる方が多かった。しかし、中学生が道ばたですれ違った見知らぬひとへ挨拶をする場所というのは他に寡聞にして知らない。しかも、現実問題としてこれは本当の不審者に対する最大の防御策でもある。その意図を持って、観光地という意識を持つ飫肥ではそのように徹底しているのかも知れない。それでいて不審者ではない無害な観光客に対してもいいイメージを持ってもらうことすら出来るのだ。


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美しい街並みに、ほどよい商業集積。恵まれた歴史の財産とともに、友愛こもった礼があふれている町・日南市飫肥。心がくっきりと洗われる素晴らしい町である。本心から訪れることを他人に勧めることが出来る、数少ない場所だ。


*1 バスでは酔うので本を読めない。

*2 ×萌えない

*3 姫路城が、熊本城はもちろん大坂城や名古屋城に比べてもあまり評価できないところもそんなところにあるのかもしれない

[trip][Train] 日南線・志布志駅

志布志駅を探訪すべく、さらに南へ。

私がはっきりと、わざわざ終着駅を訪れたのは津軽線の三厩駅が最初だったと思う。しかし、終着駅に目覚めたのは日南線が印象的だったからではないだろうか。日高本線や、今では宗谷本線も長大盲腸線であるが、時刻表の地図上では日豊本線に平行して挙げ句の果てにとぎれている日南線の存在感は大きい。

油津駅で乗換。

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さらに先を行く。串間市を奥へ進み、県境越えにさしかかるといよいよ一人になった。

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日南線は南国・宮崎のイメージのままに美しい海に沿って走るイメージもあるが、途中何回も山林の中に突っ込んでいく。かと思えば海が見えるところへ出たりする。「海を見ながら山を走る」三陸沿岸線(気仙沼線・大船渡線・三陸鉄道南リアス線・山田海線・三陸鉄道北リアス線・八戸線)とも違う、海と山を目まぐるしく変化させる演出が面白い。

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終着駅手前の大隅夏井でおばちゃんが乗ってきた。末端では生活路線としての役割も担っているらしい。


志布志着。

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駅員がいた頃の面影も見受けられるが、見事なまでの無人駅。鉄路が延びそうな余地は残しつつも、駅舎がそれを遮る。かつての鉄道の要衝は、作られた終着駅へと変貌していた。どん詰まりまで来てしまったという、来てしまったことの達成感を存分に心に感じる。

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駅にトイレはなく、駅近くのショッピングセンターが紹介されている。

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ショッピングセンターの先の公園に、鉄道の要衝だった頃の名残を感じられる。

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志布志の目抜き通りにあるバス停。廃止路線のバスは、ギャグのように存在しない。鉄道が維持できないからバス転換されるわけだが、そのバスも維持できない。もとから人がいないところならバスも鉄道も入らないのだろうが、人がいないと言ったら志布志市民は怒るだろう。でも、地元の人間は自家用車があるから困らないのである。困るのは、志布志を経由してどこかへ行きたいという困ったマイノリティの旅行者のみであり、そういった輩は来るなということなのであろう。

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駅は有志の方がしっかりメンテされているようだ。掲示板にはバス情報から宿泊情報まで貼ってあり、志の高い人たちはきちんといるものだと感心した。自販機も多い。また、タクシーもいちおうちゃんといる。

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乗ってきた列車が折り返す時刻になったので、宮崎へ戻る。


[trip] 夜の宮崎市街めぐり

宮崎駅から市街中心部まで歩く。宮崎駅は市街中心部からは離れており、8分程度は歩かなければならない。駅前は駅高架下のテナント以外はコンビニ、パチンコ店がある程度で、あとはオフィスと言ったところだ。日能研などを横目にしつつ、ひたすら商店街の方へ歩く。

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DELL宮崎カスタマーセンター。PC Watchでも話題になった、日本で数少ないDELLロゴの入ったビルである。カリーノ宮崎は元来が商用テナントビルで、1階には蔦屋書店が入っている。地方にしては満足できる規模の書店だ。

宮崎は夜でも盛り場に人がいる。陽気な飲みが繰り広げられているのであろう。物騒な感じもしない。

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この日の宿はホテルグランディ宮崎。朝食バイキングには冷や汁もあり、楽しめた。

[trip] 西都市<都於郡城探訪>

2日目のきょうは雨がちな天気。まずは宮崎県庁へ行ってみることに。

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東国原知事の立て看板は大人気。警備員の方がA41枚で作られた宮崎県庁の概要を配っていた。私も老夫婦に撮影を頼まれた。年季ある建物と言うことで観光名所になる素地はあったとはいえ、並木沿いの県庁は美しい。

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この日は雨。雨なのであまり歩き回りたくはないのだが、日向の戦国大名であった伊東氏の居城である都於郡城を訪れることにしたい。都於郡城は中世の山城で、近世城郭のほうが専門化しつつある私にとっては珍しい探訪である。「信長の野望・覇王伝」のひたすらに山地の地形に占められる攻城戦マップが印象に強く残っていたのであった。

都於郡城のある西都市へはバスでいくしかない。と、ここで西都行きのバスで迷うことになる。「デパート前」停留所に掲載されている時刻表を見ると、観光ガイドの類には西都バスセンター行きのバスは1日3本しかないではないか。しかも次に出るバスは10時52分。これでは都於郡城に行くことは出来ない。しょうがないので宮崎市役所でも見てさっさと鹿児島へ向かうかと県庁方向に歩いてみると、「西都行き」のバスが走っている。時刻表にはなかった筈だが。2つほど宮交シティ側にある停留所の時刻表を見ると、西都行きのバスが、先述の1日3本のバスとは別に1時間3本ヘッドで走っているようだということが分かる。どうやら、1日3本の西都行きのバスは高速経由のバスらしく、一般道経由のバスが別にあるらしいのだ。

そんなわけで、次に来た「西都バスセンター行き」のバスに収まった*1

西都までの道は立派な国道もあるのだが、途中からは細い道も入る。ローカルバスは、鉄道が通らない市街中心部や、何気ない住宅地をさらりと通る。バスに酔う小学生時代の名残でバスは避けてきたのだが、県勢、市勢を知るにはうってつけのものだと言うことが分かり始めていた。客は少ないが、自分以外にいなくなると言うことはないようだ。途中、佐土原城の脇を通る。佐土原城は島津の分家が江戸時代に治めていた城で、今は宮崎市に編入された。ここも余裕があれば訪れたいところではあるが、今回は時間の都合で泣く泣くカットしたところだ。幸い、佐土原駅から近く、徒歩でも行ける。またの機会があろう。


西都バスセンター着。都於郡方向へ向かうバスがあるかと思ったが、残念ながら本数が少なくてない。歩いていけるかとも思ったが、観光案内の類や、広域地図のようなものはバスセンター付近にはないようだった。行くべきか、引き返すべきか。迷ったが、ここまで来たのだからとタクシーを使うことにした。バスセンターへ引き返し、バスセンター前で待機しているタクシーを捕まえる。タクシーの運転手氏に「都於郡城まで」とお願いすると、都於郡城へ客を乗せて走るのは初めてだという。古墳で来る客は多いが、城へ来る人は皆無らしい。そんなものなのか。

タクシーはバスで北上した来た国道とは違う県道を南下する。県の総合庁舎ややや大振りな商業店舗を横目に、タクシーはさらにすすみ、田園地帯の川を立体交差で越えていった。これでは歩いていくのは完全に無理だったであろう。

都於郡城跡の入り口には立派な駐車場が整備されていた。それでもタクシーでくる観光客は皆無なのだろうかと疑問を感じた。運転手氏は、1時間後にまた来てくれるという。傘まで貸してくれた。

都於郡城を見学する。

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これが立派な城郭である。本丸、奥ノ城、西ノ城と曲輪がしっかりと残っており、さすがは戦国期に勢力を誇った豪族の中心拠点である。合戦ともなれば、死力を尽くした兵の入り乱れがあっただろうと、イマジネーションがふくらむ。<br clear="all">

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伊東マンショ像。天正遣欧少年使節は、その洗礼名が奇異だと小学生の頃はとかく人気があったが、一番人気は伊東マンショで、「マンショ、マンショ」とコールが繰り返されていた。不遇な少年使節であったが、こうして像が建っているのはせめてもの慰めとなろうか。…キリスト教だから偶像はいけないのだったっけか。<br clear="all">

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二の丸は現在整備中らしく、立入禁止だった。他の見学者は皆無。城めぐりというのは一定の人口がいるらしく、老若男女問わず城には誰かしらいるものだ。デートを城跡でやってるアベックも多い。誰もいないというのは珍しいことなのである。工事中の作業員が私にちらりと目をやる。<br clear="all">

城をくまなく回り、駐車場に予定していた時間通りについた。運転手氏は史跡入り口の看板を見て「随分と大きいのですねえ。好きなひとなら一日いても飽きないのでしょうね」と言っておられた。なかなか見所は多いと思うのだが、地元の人たちがなかなか気づきづらかったり、それでよその人たちも知るに至らないといったことは多いのだと思う。都於郡城はなかなかに保存状況も多く、気軽に歩き回れる要害である。


西都バスセンターに戻ってきた。帰りは高速道経由のバスを使おうとも思っていたが、あいにく行ったばかり。行きに来たバスと同じ経路で戻る。予定していた宮崎発の列車も1本遅くしなければならないが、仕方ない。

*1 この原稿を書いている時点で分かったのだが、http://www.miyakoh.co.jp/bus/noriba/post_88.htmlを見ると、「デパート前」バス停は5つあるらしいのだ。ボンベルタ橘前と山形前のバス停、それらの対向路線にあるバス手は分かったが、同じ進行方向の延岡寄りにもう1個同名のバス停があったとは気づかなかった。だいたい、山形屋前のバス停は案内があったが、交番前のバス停の案内は出ていなかった=少なくとも私は気づかなかった。というか、わかりにくい。ダメだろ。失格。どげんかせんといかんよ、ホントに。

[trip][Train] 鹿児島へ -日豊本線、吉都線、肥薩線-

宮崎からは都城まで日豊本線、そこから吉松まで吉都線、隼人まで肥薩線、日豊本線と鹿児島本線をつかって、いよいよ鹿児島入りとなる。

JR九州の快適な普通列車で都城まで。

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特急の狭間にある普通列車だが、乗客は多くない。日豊本線は、昨日乗った地方交通線の日南線が海沿いを走るため開けているように感じるのに対し、幹線とはいえちょうど宮崎・都城の都市のあいだを走る区間、山里の中を走る印象だった。途中で特急列車が行き違いのため待避をしている光景にも出くわした。「にちりん」が宮崎市でストップとなるのもむべなるかな、といったところ。


都城着。ここでは4分の乗り継ぎで吉都線に乗り換える。

吉都線に初めて乗る。「表」の本線である鹿児島本線からみて「裏」にあたる日豊本線と、地方交通線に成り果てた肥薩線を結ぶ、それこそローカル路線のはずだが、地図で見ると小林市とえびの市の2つの市を通る。事実、途中で山林を突っ切るシーンはあるものの、いかにも町が道路の向こうに広がっているような「町にある駅」が沿線には多い。折しもゴールデンウィーク。帰省と思われる若い女性がスーツケースかかえて乗っていたり、その一方で女子高生が乗っていたりと、吉都線は、生活感あふれるローカル線であった。


吉松駅着。ここからは肥薩線に乗る。

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ローカル線が一転、テツに止まらない絶大なる支持を受けすっかり観光路線となった肥薩線であるが、2日後にループ線を満喫する旅程が予定されていたため、すっかり嘉例川駅も華麗にスルー(実話)。別に寝ていたわけではないのだ。霧島温泉駅の降車客の多さ、小学生までもが通学に使っている市民の足としての存在感などに感じ入っていたのだ。話題になる駅以外も、肥薩線クラスのローカル線になると見所はあるのだ。


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隼人駅で乗換。既にホームは通学の高校生であふれている。国分から来た列車も立ち客がいるほどだった。錦江湾から見える桜島に鹿児島を感じつつ、私はいよいよ20数年ぶりに鹿児島市に足を踏み入れた……

[trip] 鹿児島市街見学【天文館編】

西鹿児島駅着。

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(おことわり)西鹿児島駅は九州新幹線開業に際して、鹿児島中央駅に改められた。

私は、この改名は到底受け入れられないものと考えている。

中心駅なのに、なぜか「西」がつけられていることこそ、鹿児島のアイデンティティだと思っていた。小さい時分、中心駅が「西」鹿児島駅で、それと別に鹿児島駅があることが、不思議に感じていた。でも、それでいいのだと、そういうものなんだとすんなりと納得いくようになった。むしろ、県外のひとにとって、中心駅が鹿児島駅でなく「西」鹿児島駅で「んっ?!」と思ってもらうことこそ、却って印象強くなっているのではないかとそのメリットを感じるようになっていた。

だから、新幹線が来るから紛らわしいので駅名を変えなければ…という前提がまず私の中では成り立たない。それでいて「中央」って何だよと。鹿児島駅を本鹿児島駅にするだとか、いや、西鹿児島を新鹿児島でもいいんですよ。他の新幹線駅はそうなんだから。そもそも新幹線が街の中心駅に来るとは限らない。「~中央」って駅名は、新幹線駅としても特異すぎて慣れないし、確かに現実に鹿児島の中央なんだろうが、じゃあいままではなんだったのだよという疑問が頭からもたげてきてどうにもならない。

よって、本稿では「西鹿児島駅」と表記するものとする*1


時刻はまだ18時になっていない。鹿児島の繁華街である天文館の見学をすることとする。鹿児島の街を知るために、まずは徒歩で天文館へ。

地方の都市を見るときは、百貨店と書店を見るのを常道としている。早速歩き回る。

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鹿児島三越。地下の食品売り場をのぞいてみるが、活気と言うほどの賑わいはない。せっかくのナショナル・デパートなわけだし、頑張って欲しい……と思っていたが、その後閉店が決まってしまった。

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山形屋。宮崎の店舗も街の第一百貨店だが、こちらは本家本元。多少年季入っている部分もあるが、客は各フロアにいるように見受けられた。

その後は、天文館のアーケードを巡り回る。

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ジュンク堂へ入ってみた。仙台や東京の各店舗に比べて面積は狭く、品揃えもそれらの店に比べると劣るものの、満足できる品揃えは健在。欲しい本を見てみたいときに真っ先に行きたくなるような店だ。コンピュータ書籍などは壁一面の本棚に入っており、梯子で登って書籍を取る。面倒かも知れないが、それでも置いておいてくれる安心感は捨てられない。

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天文館の商店街はひたすらに大きい。小さい商店街にあるような個人商店からチェーン店まで、商店の内容が幅広いことが、地方主要都市の商店街の魅力だと思う。

と、すでに夕食時ではあるが、一人で入るに適した店がない。ラーメン屋は確かにあるが、前日宮崎でも食べているのできょうは違うのが食べたい。ここは駅前のアミュプラザに戻った方が良さそうだと思い、引き返す。一人旅では駅ビルが安易で名物にも出会えてちょうど良い。JR九州も黒豚横丁を押していることだし、鹿児島産黒豚もいいかと思ったが、あっさりとしたものを食べようと思い、駅前の回転寿司に深く考えず入って済ます。


この日から2日間、東急インに泊まる。

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東急インは少しばかり格上(割高)のホテルだと思っていて、なかなか泊まる機会がなかった。しかし、一泊5000円だったので、駅にも近いことだしとチョイスしてみた。テンピュールの枕は、低くて普段使いにはどうかと思うが、たまに使う分には至極気持ちがよい。

この日はちょうど木曜日。「秘密のケンミンSHOW」(読売テレビ制作)をやっており、なんと隣県バトルのコーナーがタイムリーなことに鹿児島県対宮崎県で、国生さゆり(鹿児島県代表)と米良美一(宮崎県代表)が舌戦を繰り広げていた。戦国期に薩摩の侵攻を受け、江戸時代には現宮崎県は小藩が分立。現在においては東国原人気で宮崎が注目を集めているという背景をまず紹介。鹿児島県の人物として西郷隆盛から篤姫まで紹介されるが、米良は「昔の偉人ばかり!」と、エビちゃんほか現代の人物を出して対抗する。その後、東国原知事がセールスを盛んに行った県特産品を米良がアピール。他のパネラーの支持を受け、結果は宮崎県の勝ち。国生さゆりの「私故郷に帰れな~い」とくずれるシーンが印象的であった。そのときの米良の弁によると、鹿児島県は指宿の温泉といい、「いいでしょ?」と逃げられないようにしておもてなしをするのが厚かましいのだそうだ。鹿児島県が偉人を数多く生み出してきたことからも分かるとおり、鹿児島は有史以来努力してきたし、県土に様々なリソースをもっている。それっていいでしょ?と誇りを持って他者に供してくれるのもまた県民性であり、そこには愛おしさがあるかもしれない。

*1 私自身は、百年の禍根を残す改称失敗だと思っているが、自分の考えとは別に表記を世間一般に迎合するかどうかは、今後とも検討するものとする

[trip][Train] 鹿児島市電所感

鹿児島市内、天文館から西駅に戻るとき市電を使った。鹿児島市電は2系統なので、初めて来たときでも分かりやすい。どちらも西駅を通るし。

ただ、乗ってみると凄い混雑! 途中で降りようにも人をかき分けようやく降りると言った様相である。ここまで混んでいる路面電車は見たことがない。単に鹿児島の都市規模に比して路面電車はやや非力であり、かつ市民の利用率が高いため容量が追いつけないということだろう。

しかも、料金はICカード利用でなければ160円と中途半端。小銭を持っていなければ料金投入口での両替が必要となり、時間がかかる。路面電車が詰まっている様子も散見された。隣を走るバスの方が客も少なく、早く着きそうな勢いである。

谷山から乗ってみると、専用軌道でだいぶ快適であるが、その他の多くの区間が併用軌道のため、右折待ちの自動車を待つことも多い。これでは鉄道としての定時制の魅力は皆無である。運行間隔もバラバラとなり、待っている間に目の前のバス停に目的地域のバスが来たりする。

また、電停のスペースに対して降りる人も多く、ついうっかりホームのスペースから降りて軌道に足を踏み入れていたりする。路面電車に乗り慣れない自分だけのミスかと思っていたら、他にやっている地元の人までおる。

しかし、鹿児島の交通は難しい。バスだけではキャパシティ不足だし、かといってどう考えてもモノレール、地下鉄を建設するほどの交通需要があるようには思えない。事実、時間帯・場所によってはガラガラだったりする。結果、現状においては市電でいくしかないのだろう。

[trip] 鹿児島市街見学【歴史編】

朝起きて、鹿児島城(鶴丸城)見学のため移動する。

この日は、市内の小中学校で写生を全市的にする日だったのか、市電で集合場所場所へ向かう様子に遭遇した。母が写生の話をしていたこともあり、その頃から変わってない恒例行事なのかと、そんなことを思った。

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もともと鹿児島城は城郭としては簡潔な造りである。軍事施設でなく政庁としての城であろう。城近くに市役所がある。鹿児島市役所は市内中心部にあるが、県庁は郊外にあるようだ。

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場内にある黎明館を見学。全時代を説明する施設で、初めて知る内容は多くない。見るべきものは多く、見学には時間がかかった。

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西郷隆盛終焉の地・城山へ登る。

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見事な桜島である。

桜島の雄姿を見ながら、中学までを鹿児島で過ごした母のことを思い起こしていた。母は、鹿児島の思い出をよく話していた。親の反対を押し切り、大阪まででなく東京まで出てきた向こう見ずすぎる母であったが、しばしばするのは鹿児島の話ばかり。やはり故郷の思い入れは大きかったのだろう。歳を取るにつれて体が弱っていたこともあったろうが、それでも鹿児島にまで帰ろうということはついぞなかった。父(私の母方の祖父)が既に亡いこともあったろうが、それでも電話で親しげに話していた姉たちは健在だったのに、である。なぜ母は鹿児島へ帰ろうとしなかったのか。その答えは母の死とともに謎のまま私に遺された。眼の前いっぱいに広がる鹿児島の街と海と山を眺めながら、母に手を引かれて天文館を歩いた幼稚園年中の頃を思い出し、私は母の思い出に浸った。

しかし……

眼下に広がる鹿児島市街の繁栄ぶりを見ながら、私はさらに別のことも感じていた。これが、明治維新で勝者の側となった鹿児島の繁栄なのだと。実は、私の本籍は青森県南部地方である。本籍を同地とする一族で、その本籍地に行ったことがあるのは、岩手に6年間住む機会を持った私一人であるが、6年間の岩手暮らしを経て、私のアイデンティティは南部となった。賊軍、朝敵とされた南部の人間としては、勝者となった敵側の華やかな賑わいを複雑な思いでしか見ることが出来なかった。別に盛岡や八戸が寂れているというわけではない。そういう事実はないことは頭では分かるのだが、既に色眼鏡を持ってでしか、この鹿児島の街を見ることが出来ないのだった。

西郷隆盛も終焉の時、城山からこの桜島の雄姿と鹿児島の町を見ていたのであろうか。鹿児島県は勝者であるが、同時に屈折も経験している。戦いは無意味ではないが、虚しさだけがそこかしこに充満する。そして、その虚しさは意味との戦いとなって、後代がずっと負い続けなければならないのだ。戦いに意義があるのだとすれば、その次なる戦いとの対峙から逃げることが出来ようか。

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名所巡りのバスに乗って城山から降りる。市街のめぼしい史跡を見て回ることとする。

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西南戦争の傷跡の残る石垣。

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私学校跡。

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西郷隆盛像。市民が誇りとする西郷どんだけに、威風堂々。青空に雄姿が映える。

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小松帯刀像。小松帯刀は、松平春嶽と並んで幕末ヒーローものの名脇役であったが、「篤姫」で見事に主役級に躍り出た。

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ザビエル滞鹿記念碑。


最後に、アミュプラザ鹿児島全景を写真に収める。

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観覧車まであるでっかい施設だが、ビルの中は客であふれている。ビル内にある紀伊國屋書店も規模が大きく、書店冗長化の観点からも鹿児島は満足できる。また、ファッション系店舗も充実しており、JR九州は駅商業施設の立ち上げに際し「ルミネ」「エキュート」のJR東日本並みに成功していると言える。翻ってJR北海道は、札幌のステラプレイス以外に突破口を見いだしていない。いいのか。

[trip] 知覧にて学んだこと

鹿児島市内の見学が一通り出来たところで、次は知覧の「特攻平和記念館」に行っておきたい。

第二次世界大戦系の施設は、「戦争を美化している」と言われるか、「自分の国の歴史を蔑ろにしすぎている」と言われるか、どちらかに分類されてしまうのが、まだ歴史でなく政治の範疇にある内容としての宿命であるが、それでも、国のために死んだ若者について知っておきたい。

さて、鹿児島からは指宿枕崎線で喜入まで、特攻平和記念館の見学の後、枕崎まで行って指宿枕崎線の完乗を果たして帰ってくるというスケジュールを考えていたが、どうも喜入のバス時刻表が分からない。鹿児島のバス時刻表は、ネット検索では出てこないのだった。これは、鹿児島からバスもやむなしかもしれない。

鹿児島駅の観光案内所へ。知覧へ行きたい旨を話すと、バス時刻表の紙を渡してくれた。1分乗り継ぎになるが、喜入駅からなんとか行けそうである。

早速、発車しそうな指宿枕崎線の列車に乗りこんだ。


喜入駅着。

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ところが、バス停がどこにあるのかがさっぱり分からない。

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廃止された駅前のバス停はあった。

大きい道路の方へ行けばあるかと、駅を出て右へ行ってみたがこれは間違いであった。正解は左だったのである*1

旧喜入町役場の前に出ると、バス停があった。

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すでに乗り継ぎ予定だったバスは出ているが、50分程度待てば出るようなので、待つ。

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道の駅喜入で紫芋ソフトクリームを食べる。

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石油貯蔵基地。前に来た友人は「攻撃されたらひとたまりもないんじゃ?」と言っていたが、そうだろうなあと思いながら時間を過ごす。

バスの時刻5分前にバス停へ。しかし、バス停へ向かう途中でそれらしき行き先を示したバスがしらっと向かっていった。まさか早発か? いや、もしかしたら違うバスかも知れない。バスは遅れることはあっても、早く発車することは有り得ない。私の中ではバスとはそういうものだった。しばらく待つことにした。

15分待ったが、バスは来なかった。鹿児島交通の加世田営業所に電話してみた。バスがそんなに遅れることはないので、既に出ているとのことだった。

仕方ないので、喜入駅まで戻り、タクシーを使うことにした。タクシーの運転士氏の話によると、喜入からの客は比較的タクシー利用が多いとのことだった。9割近くはバスでなくタクシーだというが、本当だろうか。特攻平和記念館を訪れるのが壮年以上の方が多いようであれば、それは正しいのかも知れない。

昼はまだだということを話すと、美味しい店があるということでその前でおろしてくれた。私は少し考えた。満足な食事もない最中、特攻で散っていった彼らを考えると、食事で満ち足りて見学をするのは申し訳ないのではないか。私は食事を後回しにした。

特攻平和記念館を見学。

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特攻隊員の遺書だけでなく、特攻が行われた経緯、その内容、戦果等も詳しくパネル展示されていた。だが、ここはやはり特攻で散って至った若者たちの顔写真の展示が大きなウェイトを占めている。彼らの年齢、出身地を一つ一つ見ていった。10代が中心だが、20後半の者もいる。出身地に「岩手県」とあるのを見ると、胸が切なくなった。

知覧での彼らの生活も詳説されている。酒もあったという、カラッとした表面上の生活を知ると余計に苦しい。特攻しても、成果はまちまち。難しい。

特攻をするほどに追い込まれない、政治的状況を常に作り出すことこそ、後代の私たちが行うべきことなのだろう。だが、それは特攻は犬死にだと非難するより遙かに難しいことなのだ。

ミュージアム知覧、三角兵舎、特攻平和観音を続けて見学した。平和観音は、翌日に控えた戦没者慰霊祭の準備の真っ最中だった。

駐車場から、知覧の空を見た。

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青い空。同じ空を特攻隊の皆も見ていたのだろうか。この空から国のためにと意を決して飛び立った若者たちがいたのだろうか。その決意が出来た者たちが六十数年前にいたことに、私は自らの小ささを感じていた。


喜入に戻るバスの時間までは、だいぶ時間がある。先ほどタクシーの運転手氏に紹介された食堂へと行ってみたが、営業は14時までのようだった。私は旧知覧町中心部と、武家屋敷群を見て回ることにした。食事より見学だ。バスがあれば良かったが、これがない。2km近くなので、歩いていくことにした。

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山を越えて歩く。


知覧市街についた。

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富谷食堂のセット。

武家屋敷はひとつひとつ回れる時間がないので、さっと歩くにとどめた。

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戦争・特攻の知覧とはまた違う普段着のひとときがそこにはあった。

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知覧からバスで喜入に戻る。

まっすぐ大きな道を縫って走ったバスと違い、バスは細い坂道へ入っていった。地元の老婆がゆっくりバスへ乗っていくのを見ると、観光地でない日常を感じる。

バスは喜入駅に近づいていた。私はここで、あることに気づき始めていた。

きっぷがない。

きっぷは、「周遊きっぷ(九州ゾーン)」。翌日は新幹線に乗るため別途きっぷが必要だが、これから乗る予定の枕崎までの乗車が出来ない。それに加えて、鹿児島から東京へ戻るのに、門司までの乗車券がないことになってしまう。北九州市内-東京都区内のきっぷはあるが、今回の旅程では、特急の大半はこの帰りで乗る予定であり、残りの行程分の金額は20,770円に及ぶ。ここまでずっと鈍行で来たため、まだ周遊きっぷの元すら取っていない。

道の駅喜入、ちかくにあるファミリーマートなど、立ち寄ったところに「きっぷの落とし物はないか」と尋ねて回るも、ないとのこと。歩いた道も丁寧に歩いてみるが、きっぷはない。

先ほど電話をかけた鹿児島交通の事務所に電話をかけてみるが、「忘れ物の状況はこちらでは把握していない、降りたバスが2時間後にそちらへ戻るので、それを捕まえて聞いてみてくれ」という。連れない返事すぎる。

喜入駅に戻る。駅前では、往路で乗ったタクシーの運転士もいたので「落ちてなかったか」と聞いてみたが、これまたそのような形跡はなかった。

駅の窓口に「みどりの窓口 指定券」とある。クレジットカードによる発行明細がある旨を話して、「ゾーン券だけ再発行できますかね?」と聞いてみたが、「分からないので中央駅か指宿駅かで聞いてみてください」との返事である*2。この場合は、再発行は厳しかっただろう。

私は喜入駅前のバス停で途方に暮れた。すべてを諦めて金を払うことにして指宿まで行って戻るには列車がない。今日はもう枕崎へ行くことは出来ない。これは、一度知覧に戻ってとりあえず歩いた道を含め探してみるしかない。本日に限っては探してみることに時間をかけるしかない。ここで、駄目もとで閉館間際の特攻平和記念館に確認の電話をかけてみることにした。ここまで聞いてみることをしてなかったのは、落とす要素がないからであった。私はいつも、小さな肩掛け鞄を、主鞄とはべつに持ち歩いていた。だが、今回は時刻表を「文字の大きな時刻表」にしたために、小さなショルダー鞄を持ってこなかった。いつもはショルダーバックのポケットにきっぷを集約していた。今回は、胸ポケットにきっぷを入れており、デジタルカメラの出し入れも同じポケットから行っていたために、どこかしらで切符を落としたというわけだった。平和記念館では一枚も撮影をしていない。カメラを出す機会がなかったのだから、落とすことはないと思われたのだった。


だが……

なんと、きっぷが一枚、落とし物として届けられているというのである。きっぷの内容は「周遊きっぷ・九州ゾーン」、発行駅も大井町駅で一致する。きっぷはあったのだ! 取りに伺うが、バスの時刻から行くのは閉館時間後になるという旨を話すと、「入り口のドアに貼り付けておきますよ」という。なんという親切な対応だろうか。

私は決心した。タクシーで取りに行こう、と。もしかしたらまだ間に合うかも知れない。

喜入駅に戻り、先ほどのタクシーの運転士方に会った旨を伝えると、皆「良かった」と喜んでくれた。

タクシーの運ちゃんは、平和記念館の入り口でメーターを止めてくれた。入り口に取りに行っている間、待ってくださることとなった。

平和記念館の職員の方はまだいらっしゃり、私は通用口の戸を叩いた。平和記念館の封筒に入った周遊きっぷを私は受け取った。館の中で落ちていたと、届け出があったとのことだった。私は改めてお礼を言い、平和記念館を後にした。

タクシーの運ちゃんは改めて良かったねとお話くださり、鹿児島までのバス停へ連れて行ってくれた。鹿児島市内で渋滞に巻き込まれるので、平川駅から指宿枕崎線に乗った方が早いとも教えてくれた。お礼を言って、私はバス停へ向かった。

バスを待ちながら、私は痛感していた。私は、この知覧の空から散った若者たちによって生かされていることを。この施設に彼らを知りに来る人たちの親切によって、私は救われたのだ。そのように来る人たちを親切な心持ちにしているのは、彼らの意志である。死した彼らが、今の知覧を、鹿児島を、この日本を造ってくれているのだ。私の母が育った鹿児島と同じ空を、彼らもまた見ていたはずである。この風土は連続しているのだ。

若くして散っていった英霊たちの言葉を見るだけでは、残念ながら当時の若者たちの生き様を知るには限界がある。身をもって痛い目にあって*3、私は彼らの大きさとその遺した景色の偉大さを、嘗めるように学んだ。


この場を借りまして、きっぷを拾得してくださった方と、特攻平和記念館の皆様、問い合わせしました皆様にお礼申し上げます。本当に有り難う御座いました。


*1 ここで自己批判しておけば、そういうときは誰かに聞けばいいのである。でも、聞かなくとも分かる観光地というのはいくらでも存在する。旅行者の側も反省すべきだが、かといって迎え入れる側が免罪となるわけではない

*2 ちなみに喜入駅はJR時刻表によるとみどりの窓口設置駅ではない

*3 たかが切符を落としただけ、命が飛んだわけではない。それはそうだが、脳幹にこたえる経験であったことは確かなので、いくらか斟酌いただければと思います。

[trip][Diary] 母のきょうだいたちに会う

次の日……4時58分発の列車に乗って意地でも枕崎へ行ってやろうと目覚ましをかけたが、起きたのは既に9時になろうかという時刻であった。これでは肥薩線に乗る当初予定も消化することが出来ない。すべては九州新幹線全線開業後にとっておくことにして、午前中から伯母に会いにいくことにした。

10時過ぎ。今より川内へ向かう旨を電話にて伝えるも、時期はゴールデンウィークの最中。西鹿児島駅は大変な混雑であった。そのため、乗る予定だった列車には間にあわない事態となった。携帯電話にて遅れる旨を伝える。恐縮。


さて、はじめての九州新幹線である。

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新幹線だけど、2×2のゆったりとしたゴーカなシート。カシオペアの向谷実のテンポ良い車内チャイム。4カ国語による案内が終わる頃にはもう川内駅であった。乗っていて気持ちが豊かになれる列車だった。何度でも乗りたい。まさしく贅沢である。


川内駅着。

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再度電話で伯母に連絡を取ると、バスプールにて待っているという。高架駅から地上へ降りると、伯母が待っていてくれた。1年前の母の葬儀以来の再会だ。伯母に連れられて車に向かうと、既に2人が乗っている。運転席にいたのは、自分と同年代の女性だった。こういうことは予想しておかねばならなかったのだが、どうも同じく薩摩川内市内に住む別の伯母の孫であるらしい。助手席にいるもうひとりの女性は、運転席にいる女性の母親、つまり従兄の奥様である。

伯母の自宅に着いた。伯母のご主人と会う。…子どもの頃、もしかしたら会っていたかも知れないが、分からない。そのくらいぶりの再会であり、実質はじめてといっていいだろう。

伯母の自宅は過去にクリーニング屋を営んでおり、なにせ以前訪れた時が幼稚園年中の時。自宅の周りは、変わった面もだいぶあろうが、覚えていないことも多い。かるかんまんじゅうなど食べつつ、諸々の話をした。伯母のご主人は、先の大戦の時岩手にいたのだそうだ。話が弾む。

その後、もう一人の伯母とその子…私の従兄が車にてやってきた。従兄は、既に60を越していて、母より2歳程度しか年が違わない。そういう一族なのであった。

市内の和風レストランで昼食。皆、私より二回り年長者ばかりで、気を遣うことも多い。だが、皆が可愛がっていた妹の子として、優しく話しかけていただいた。

ロードサイト型の大型店が並ぶ薩摩川内中心部を通って、高速道路へ。国道扱いで、無料である。


鹿児島市内に戻ってきた。

まずは、祖母に挨拶しに行く。祖母は、鹿児島市内でタクシーの運転手をしている叔父の家に住んでいる。

実は、祖母は母の継母である。母は露骨に祖母を悪く言っていた。「くそばばあ」とも言っていた。祖父の葬儀の時、他のきょうだいがあらかた帰り、次の日には帰ろうかという日に、何が原因かは知らないが今までに見たことのないような大人の口論を目の当たりにした。「けんかはやめて」と幼い私はいったが、「子どもは黙ってろ」と二人に言われた。……次の日に西鹿児島駅から「はやぶさ」で帰るときには噴水で記念写真を撮ったりもしたのだが。。。そんなこともあり、「祖母」としての実感は薄いのであった。

叔父の家に行き呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。きょうはゴールデンウィークで夜に働かなければならないから寝ているかと皆で話をしていたら、叔父は出てきた。家には祖母もいて、我々一行を迎えてくれた。祖母は体が弱り、ベッドの上で過ごすことがほとんどのようだ。しかし、20年以上前の口うるさそうな様相は影をひそめ、少女のような可憐さすら感じた。人は歳を取るとこどもに返ると言うが、まさにそれだろう。祖父の仏壇に手を合わせ、一通りの挨拶をして叔父の家を辞去した。

次に、郡元にある墓参りへ行く。私の記憶では、初めての母方の家の墓参りである。市街から近いその墓地は、錦江湾と桜島が一望できるすばらしいロケーションであった。死後もその風景を眺めていられるのなら何よりの満足であろう。そして、遺された生者にとって何よりの安堵だろう。


従兄の案内で、鹿児島を観光することとなった。

まずは城山。……二度目だが、前日に来たと言うことは言わないでおくことにした。興味を持ったのは、鹿児島観光と言えば、鹿児島の人はまず城山に人を連れてくると言うことである。私も岩手に移り住んで初めて、自分を訪ねてきた人に岩手を案内することとなったが、盛岡で何を食べてもらうか、あるいはどこへ連れて行くのか――マリオスや啄木新婚の家か岩手銀行中の橋支店か、小岩井牧場か、アスピーテラインや龍泉洞や三陸海岸まで案内するのか、自らのアイディア・ポケットからその人の滞在時間に応じてベストな選択をしなければならない。この作業は、東京にいた頃はあまり行う機会がなかったことである。自然、日々生活をしていて知りうるすべての経験に基づいて算出される行程であって、それならば鹿児島の最上級の案内となることが期待できた。城山こそが、鹿児島の歴史と自然を同時に感じられるスポットだということだろう。

この日は自家用車による探訪。バスで素通りした、西郷隆盛が最後の5日間を過ごした洞窟もしっかり見ることが出来た。

私が桜島に渡ったことはまだないと話すと、では桜島の方へ渡ろうという話になった。桜島フェリーの乗り場へ。

ゴールデンウィークと言うこともあり、フェリー乗船待ちの車が港を埋め尽くしていた。車中で3便程度待った。

フェリーへ乗る。潮の風が大変に気持ち良い。

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徐々に迫り来る桜島の大きさに、この山が持つ大きさを感じていた。


大隅側についた。

車でめぐる桜島は、近いこともあり生々しく迫力があった。

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鹿児島市内から噴煙を上げている姿は、猛々しくも景色としてうっとりと見とれるが、桜島は火山だと言うことを思い起こさせてくれるのであった。

道の駅で休憩。入らなかったが、足湯は盛況のようだった。

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大隅半島はドライブするには楽しい道が続く。鉄道旅ばかりでは分からない町勢は、自動車道にある。

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蒲生の大樹。樹齢1500年にも及ぶ。この手の鉄道路線から離れたところにある見所を見られるも、車での旅ならではだろう。たまにはドライブがてらの旅も、捨てがたい*1。<br clear="all">


きょうは結局、従兄の家に厄介になることとなった。

食事の前に風呂をと言うことで、薩摩金山蔵へ連れられていった。

ここは元々金山跡のテーマパークだったようだが、そのテーマパークがつぶれて、今はその施設も生かしながら焼酎と絡めた施設になっているらしい。そこの杜氏之湯に入る。温泉ではないが、相当に綺麗な入浴施設で、焼酎風呂まであった。入ってみたが、酒臭いものの肌がつるっとしたことが感じられた。

食事は庭でバーベキューが供された。従兄の婿さんの手により、屋外ライトがしっかり設営され、鉄板から火まで準備万端である。肉だけでなく、かしわから刺身まで、豪勢に用意されていた。

若い男ということもあり、次々とビールが供される。肉はふんだんで、外で食べる機会も少なく食は進む。従兄の娘さん(従姪と言うんだって?)のご主人は、職場婚で、最初に従兄に挨拶に来るとき結構ビクついていたらしいのだが、挨拶に来てまず「飲め」と言われたとのことで喜んで酒に預かったとのこと。さすがは南国である。

従兄とは、互いの祖父の話で盛り上がった。40に近い(失礼、30に近い)年の差があるが、祖父は同じく、である。これも、祖父が「豪勢な方」で子が何年にもわたって生まれ続けたからである。何回か後妻を迎えたことに起因しているが、昔はそんなもんだったらしい。残念ながら、私はその素養を継いでいないように思える。

伯母が、「あんたも薩摩の血を半分引いてるんだから、いつでもおいで」と言ってくださる。二十数年ぶりの鹿児島だというのに、有り難いことである。

もう自分には戻るべき家なんてないのだと思っていた。母の死によって家庭は崩壊し、その事象に対し、親しかった周りの連中は皆私を責めるだけだった。私はもう誰も信じられなくなっていた。でも、飛び込めば手をさしのべてくれる場所はいくらでもあったのである。前の生活は戻らないかも知れない。絶望は、決して希望がなくなったわけではない。望みが単に見えていないだけの話である。

夜もだいぶ更けてきて、5月の鹿児島とは言え夜ともなれば寒く、格好も寒さを考えていなかったので少しばかり寒い。話も頷くばかりでなかなか中座しづらく羽織るものを取りには行きがたい。次第に酔いで意識は遠のき始めた。意識が戻るとやけに気持ち悪い。私は生まれて初めて人の家の庭(の端)で嘔吐した。酒で吐く人を見るのが珍しいのだろう。皆が驚いてすぐ寝ろと少しばかり慌てられた。私はここで休むことにした。従兄の奥様が、水をくんで枕元に置いてくれた。恐縮の連続の一日が終わった。


翌朝、起きてみると何ともない。寝れば酔いは収まる。

皆に心配された。そりゃそうだ、あれしきの酒で吐く人は、この薩摩では天然記念物級だろう。朝食まで時間があるので、家の周りを歩く。昨日来たのが夜だったので、家の周りの景色を見るのは初めてである。

周りは山に囲まれており、朝らしいきりっとした冷たさも感じる。道路はしっかりしているが、林もあり田圃もありの、日本的なふるさとの風景が360度広がっていた。空気が美味しい。

朝食を頂き、川内駅まで車で送って頂くことになる。

やや発車時間が迫っていたが、さすがは地元に住む従兄。きっかり発車10分前には川内駅に着いた。

私は余裕で間に合うが、見送りに来てくれた伯母たちは足が悪く、歩いているうちに列車は発車しそうであった。従兄に促され、私は切符を買いに先に行くことにした。

切符を買い、従兄と伯母に挨拶をしていると、そろそろ入線の時刻になった。ようやく駅コンコース階まで上がってきたもう一人の伯母が遠くから手を振っているのが見える。私は従兄たちの前を辞した。

再びの九州新幹線。母方の親戚に会うという類い希なイベントは終わった。

*1 岩手にいた頃はけっこうやってはいたのだが

[trip] 臼杵を訪ねて

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西駅からは、特急きりしまで宮崎まで移動。

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錦江湾と桜島。

きりしま4号は宮崎までの運行。久々の宮崎駅。10分と乗り換え時間はないが、宮崎土産として地鶏を買ってしまう。これで抽選の権利を得たのでガラガラをまわすが、残念賞として飴がもらえただけだった。

宮崎からはにちりんで移動。延岡-佐伯の宗太郎越えを楽しむ。

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しかし、人家もそこそこにあるのに1日3往復から5往復の普通列車とは……そう考えつつ人様の家を覗くと、必ず自家用車があるのである。存外に厳しい。


大分まで行かず臼杵駅で途中下車することとする。この日、大分から走る寝台特急富士に乗ることを考えると、2本は遅く鹿児島を出ても良かった。しかし、大分市街を見学するとなるとちょうどよく大分市街見学を確保できる接続がない。そこで、1時間強の見学として適当なところで途中下車を行うこととした。そして、大友宗麟の丹生島城としても名高い臼杵城見学をチョイスしたというわけだった。

臼杵駅で下車。

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降りる人はちらほらだが、乗り込む人は多かった。

地図に従い歩いていくが、着いた臼杵城の入り口は「本当にここから入れるの?」と思えるような場所だった。

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時間もないので無理に突破すると、そこは市民の憩いの場としての公園がちゃんとあった。

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場所としては公園なのだが、空堀や石垣もきちんと残っていて、城として愉しむことが出来る城址だった。

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と、公園の端まであるくと、きちんと畳櫓が現存しており、入り口として整備されているのであった。

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臼杵市としては、古い江戸の町並みをウリにしており、駅から離れた市街側がメインと考えているようであった。

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稲葉家下屋敷を訪れてみる。

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見学時間も多くはないので外から見るだけ…と考えていたのだが、なんときょうに限って入場無料らしい。

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無料につられて入ることに。

この手の古い屋敷においては、屋敷そのものをウリにするきらいがあるが、この稲葉家下屋敷は「生活」を見せる造りになっているようだった。これはこれで好感が持てる施設である。

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臼杵は歩いていて気持ちが良かった。寂れた感じはせず、街としては「慎ましく」であり、車も通らないわけではないが量は多くなく、心地よい。のどかでゆったりとした時間を観光するに、これほど適したところはないのではないか。臼杵には海もある。本来はもっと、こういう街に1日費やしてのんびりするのが、旅としての本当なのだ。

[trip] 大分市街へ

臼杵からはソニックで移動。30分ほどで大分駅到着。

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またひとつ、県庁所在地駅に足跡を残すことが出来た。


とりあえず、大分の目抜き通りをぶらり。

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パルコやフォーラスなどがそろい、若い人も多い。GW中とは言え、この程度人があふれていれば安心だろう。地場百貨店のトキハに入ってみた。ちゃんと買い物客が入っている。地元資本の百貨店が健在だとほっとする。

さて、旧城下町に来たらやることはひとつ。城の見学だ。府内城を見学。

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大分文化会館が立地し、城として整備されているようではなかったが、櫓がいくつか残り往時をきちんとつたえてくれていることと、復元も櫓にとどめ、品のいい県庁所在地の公園になっている。大部分が文化会館の駐車場なのが残念だが、堀を歩いているとアイディアがふつふつと涌いてきそうな公園だ。

大分市街は、彫刻をあちこちに設置する街作りを行っているらしく、県庁前の遊歩公園には大分市ゆかりの人間の彫刻がずらり。

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大分はいずれまた再訪し、今度は泊まって関サバでも堪能したいところだ*1

*1 ただ、やっぱり10分列車で離れた別府にふらふら泊まってしまうかもしれないですな

[trip][Train] 寝台特急富士で東京へ帰る

正真正銘のブルートレインに乗るのは、1998年のみずほ以来である。

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みんな記念写真を撮っている。ブルートレインは一時期こそテツの巣窟だったかもしらんが、最近はポピュラーな観光対象と化してきた感がある。

と、ここで車内に入る。「こんなにボロかったっけ?」というのが、偽らざる感想だ。ちょうど20年前、亡くなった母と一緒に乗ったはやぶさにあった冷水器やら便所は、当時はまだまだ元気な現役だった0系新幹線と遜色なくこざっぱりときれいだった記憶がある。これが月日なのだ。ひとは育ち、そして亡くなり、列車も変わる。この富士だっていつまで続くかも知れぬ存在なのだ*1

今回は上段なので、おとなしく上段へ。

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空いていれば下の椅子を空けて車窓でもと思ったが、この通路の椅子が大人気。なかなか座れない。別府を過ぎたあたりで、ひとつ隣のまだ誰も来ていない寝台脇にある椅子を確保することにした。

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USA駅(笑)。

中津駅停車。

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日本一長いハモの椅子を眺めつつ、ソニックに抜かれる東京行き特急の図を堪能した。

門司駅到着。食糧を大分駅ホームで買おうと思ったのが誤りで、駅のそとで買った鯖握りしか持ち合わせていなかった。小腹対策にKIOSKかコンビニでも…と思ったが、改札内には買えるところが見あたらなかった。仕方なく、テツで賑わう連結騒ぎを見物と決め込む。

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後ろ向きに入ってくるのでフラッシュはいいのかとも思ったが、それよりなにより列車と接触せんばかりに身を乗り出しているのもいて大変に危ない。発車時の記念撮影は家族連れもカップルもいて微笑ましいが、列車連結のような「イベント」に集うのは旧態然とした鉄オタの皆様ばかり。変わってないんだなとほっとするのも1割くらいあるが、周りをきちんと見て欲しいと強く思う。

はやぶさとの連結も終わり、一路東上するばかり。山陽本線の長い夜が始まった。山口の主要駅から乗り込む客を横目に、寝台列車の夜旅を惜しみながらゆっくり堪能する。

今回は遅れることなく、無事に東京着。

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*1 なんでも平成21年春にはなくなってしまうのだとかで。まったく。

[trip] 余話として:鹿児島を殺すのは何か

以上でだいぶ大型となった旅行記も終わりである。全部目を通した方がいれば、その根気強さにひたすら頭が下がるのみである。感謝申し上げるのみである。

これで締めておけば、「母の故郷を訪ねて、自分を見つめる有意義な旅が出来ました。(マル)」で目出度く終わりとなろう。以下に言うことは、英霊たちの手前、慎むべきことかも知れない。ちっぽけなことで大騒ぎするなと知覧の空は確かに呼びかけてくる。しかし、それでも、なにせ私の半分は薩摩の人間。言っておかなければならないだろう。

(現在執筆中。後日アップ予定)


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